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 Toshi Toyoda
  #1  自分の血の中にアドレナリンが出て来る!
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◆加藤明さんがいなければ

加藤明さんがいなければ、いまの私はない。生まれも育ちも上野で
すが、上野高校から受験して慶應大学に入りました。高校の時は週
に1回練習をする程度のバレー部に入っていましたが、3年生の時
はもう受験なのでまったくやらなかった。だから本格的なバレー経
験はありませんでした。

64年、慶應へ入って日吉のキャンパスを歩いていたら、高校の時に
対抗戦で試合をした相手とバッタリ会って、その彼も慶應に入って
バレー部へ入るので一緒に入らないか?と誘われたんです。上手い
選手いないからすぐレギュラーになれるぞ、なんて言われて、それ

がほんとか嘘かもわからずに、他にやることもないからやってみよ
うと思いました。

当時の慶應大学バレー部は監督・加藤明さんの3年計画の3年目を
迎えたところで、中央大学を破って全日本学生選手権で優勝する年
でした。自分自身は太っていたし色白で、1年生ではずっと球拾い
をしていました。スパイクも打たせてくれないし、1年間やってみ
たけど面白くないので、1年終わったらもう辞めようと思っていま
した。


◆こっちへ来い、ちょっとスパイク打ってみろ

秋のリーグ戦も終わって品川体育館で練習している時でした。当時
のわれわれの代はチビばっかりで、1人が身長172cm、私ともう
1人が170cm、そして168cmがもう1人いました。そういう中
で私はジャンプ力はあったみたいなんです。ジャンプしかなく負け
ん気が強いだけで、他には何もない。5時間の練習が終わった後で
も、50回ジャンプを繰り返しやっていたので、ジャンプ力だけは
ついたし、身体もしまってきました。でも練習ではスパイクを打た
せてもらったこともないし、高校時代に9人制をやった時にもミド
ルのセンターでしたので、スパイクは打ったことがなかった。

そのスパイクを初めて打ったのがこの品川体育館だったんです。練
習中にたまたま身体が空いたので、バスケットボールのボードに向
かってジャンプ練習していたんです。ジャンプしてバスケットのリ
ングに触るのを繰り返していました。すると加藤さんが「トヨ、こ
っちへ来い、そこでちょっとスパイク打ってみろ」と言ってくれた
んです。そのとき自分の血の中にアドレナリンが出て来る感じがし
た。それで見よう見まねでスパイクすると、びっくりするくらいジ
ャンプできたスパイクを打てたんです。

それで、こいつは来年から使える、ってことになった。4年生が4
人、3年生が2人のチームで、3年計画も終わっていたので、運が
良かったんだと思います。次の年も加藤さんが監督でしたが、名古
屋の住友軽金属での春合宿でポジションの発表がありました。初め
名前が変なところにあるなと思ったんです。第2エース。小島さん
という1つ上のエースアタッカーの対角でした。


◆素質をよく見抜く

2年生でレギュラーの第2エースになって、春のリーグ戦で2部に
落ちてしまいましたが、1部リーグでも試合をやりました。対戦相
手の日体大や中央には森田・角田や横田という選手たちがいた時代
です。
振り返ってみれば、加藤さんがいなければ、あそこでジャンプして
いなかったら、バレーは辞めていました。次のキャプテンになる人
に、既に辞めますと言ってあったんです。私は当時はビールも飲め
ない甘党だったので、クリームあんみつを御馳走されて、来年から
レギュラーだって説得されている最中でした。加藤さんは私が2年
生の途中でペルーに行かれました(編集註:ペルー女子チームを監
督し後に世界4位に育て上げ「アキラ」として国民的なヒーローと
なる)。

加藤さんは理論家です。素質をよく見抜くのが鋭い人。それでいて
結構やさしい人です。私にはやさしかった。私の体力と筋力、フィ
ジカルなアビリティを買ってくれました。バレーボールがどうのこ
うのではなくて、エクササイズをやっても、他の選手ができなくて
も私ができる才能を見抜いてくれていました。私はもちろん自分で
ここまで来るとは思ってないですから。

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豊田 俊明
とよだ としあき
1946年1月3日東京都台東区御徒町生まれ
身長170cm 体重63kg(選手時代)

プライスウォーターハウスクーパースLLPバンクーバー事務所 勤務
日経企業サービス統括責任者 カナダ勅許会計士、米国公認会計士

「子供は息子が28歳、あと娘が3人います。
 スポーツはゴルフは楽しみ、テニスは
 エクササイズがわりにやっています」