06.01.03 UPDATE ◆ブラジルへ思いを馳せ

19年前の1987年の正月、僕はまだかろうじて20代だったけど
どんなことをしてどんな思いで正月を過ごしたかまったく記憶がない。
ただ、2月に初めて行くブラジルへ思いを馳せながら
ビーチバレーとはどんなスポーツだろうといろいろと資料を探していたと思う。
そしてあっと言う間に2月がやって来て
初めて行われるFIVBビーチバレー世界選手権の開催地
ブラジルはリオデジャネイロのイパネマ海岸に
日本バレーボール協会から日本代表選手団の一員として派遣された。

当時の日本選手団は総勢7名。
日本代表チームに選ばれた法政大学バレー部の
立川一郎キャプテン(4年生)と後のキャプテン松本聡(2年生)、
団長として神奈川県バレーボール協会の重鎮、
それにビーチバレー大会を日本でやるならば
そのスポンサーの第一候補となる2つの企業の担当責任者、
さらにマスメディア代表としてスポーツ紙のベテランバレー記者、
そしてイベンターとしての僕の7名だった。

ブラジルは日本から見て地球の裏側。
真冬と真夏、昼と夜がまったく逆転していたのに加えて
ビーチバレーはインドアバレーの正反対のスポーツ。
室内で競技環境に一定な基準つまり限りなき安定性を追い求めるインドアバレーと比べ
プレー毎に形を変える砂浜の上で太陽に照らせれて
風も方向と強さを瞬時に変えるビーチバレー。
このスポーツを見た瞬間に僕は魅了され
この時の感動がずっと続いてこの文章に到っている。

ブラジルに着いて早速イパネマビーチに出来た巨大建造物
=仮設スタンドの関係者席に陣取ると
しばし遅れて資料で何回も見た顔が関係者席にやって来た。
シンジン・スミス。
恐いもの知らずの僕は彼に声を掛け、すると彼はそれから約30分
ビーチバレーの現状と可能性と未来を語り
残りは選手ミーティングの時にと言って練習し始めた。
選手ミーティングはその日の夕方から宿泊していたホテルで予定されていた。
そう、確かレブロンフラットという名のホテルだったけれど
その宴会場で行われた選手ミーティングに
僕は不覚ながら時差ぼけで寝入ってしまってて不参加。
シンジンと続きの話が出来なくていたく後悔した。

日本選手団はこのツアーでは原則団体行動、
基本的にほぼすべての食事を選手団一同で食べたが、
着いたばかりの昼は街中のレストランで全員で昼飯を食べ
その日だけ後の第8回BVJ優勝者の松永政郁選手のお父さん
孫さんも一緒に居てくれた。
その時フィジョワーダという地元料理
豆や肉を煮込んだ汁を御飯にかけたものが
周りを見渡して美味しそうなので頼もうとしたのだが、
大会主催者から日本チームのためにと雇われた日系通訳から
腹を壊すからやめた方がいいと却下された。
あとから知ったのだがこの料理は食べられる日が曜日で決まっていて
その後なかなかタイミングが合わず2度目のチャンスがなく、
願いかなって初めて食べられたのは何とこの時から13年後だった。
(........それはともかく)

シンジンとの約束をすっぽかし後悔先に立たずで
その夜ホテルで団体夕食を共にした後は余計に目が醒めていて、
しかもホテルの手違いからか日本選手団7名に対して1つのルームしかなく
(と言っても部屋は3つか4つに分かれていたが)
全7名がその部屋のベッドやソファーや床に思い思いに寝なくてはならなくなった。
もちろん2人の選手を先ず第一に考えての部屋割りとなって、
選手以外で最も若かった僕はソファだったら床だったかに寝ていたような気がする。
部屋は10階以下の階だったと思うが開け放した窓の外
ホテルの裏手にある建物から大音響が聞こえて来る。

起き出してのベランダから下を眺めてみると
たくさんの人がひっきりなしに入ったり出たりしている。
行ってみたいけど選手団だから勝手に行けないし
どうにも気になってなかなか眠れない一夜を過ごした。
確かスカラという夜まではショーを見せる店が
ショーの後は夜通し踊れて飲める店になって
大音響と人々の嬌声を発していたのだと思う。

そんなブラジル初体験日かつビーチバレー初体験日からずいぶん時が経った。
すっかり忘れていることもあれば昨日のことのように覚えていることもたくさんある。
ビーチバレーの魅力はあの時から今までずっと変わらない。


(UPDATE 3001 針谷 和昌)